大学教員任期制=クビキリ制に反対する声明
     1996年3月
       九州大学教職員組合中央執行委員会
 大学審・組織運営委員会の文書「大学教員の任期制について」の発表 (95年9
月) 以来、「大学改革」の重要なメニューとして任期制導入がわれわれにおしつ
けられる気運が高まっている。われわれは、このような「改革」攻勢に対して、
第一に研究・教育労働者の処遇の問題として怒りを込めて反対するものであり、
さらに研究・教育それ自体に対しても憂慮すべき結果をもたらすものとして強く
反対する。
 今日の大多数の大学教員の処遇がけっして「特権」的状態ではないことがまず
確認されなければならない。この職業は年俸何千万あるいは何億となる特殊なタ
レント的プロフェッションではないのである。大学教員への入職コースはさまざ
まであるが、大部分は大学卒業後、最低で5年の大学院生生活(無報酬どころか高
額の授業料支払いなど費用持ち出しの就職準備過程)、さらには何年かのオー
バー・ドクターの年限を経て、30歳前後でやっと定職=賃金労働に就く。国立大
学教員の場合、その賃金水準は、40歳代に教授昇進をするといったごく順当な
キャリアを辿った場合でさえ、民間大企業の職員と比べれば約半分、さらに公務
員賃金の抑制が貫徹されてきた80年代以降は、標準的私立大学教員と比べても
「処遇」の劣等性は、学会活動への金銭的支援など研究条件の格差拡大とあわせ
大幅なものとなった。このような悪条件にさらに重ねて、老齢年金受給以前での
何回かの雇用の断絶=失業によるムチを制度化しようというのか! 賃金の確保
・向上、その前提としての雇用の安定を機能の原点におく労働組合としては全く
許しがたい「改革」である。
 とはいえ、もしも任期制導入が教育・研究にプラスの効果をもたらすというこ
とがあるなら、労働組合の原点を措いても一考が必要ということになろう。けだ
し、現代の多くの労働組合は労働の社会的有用性の吟味・向上をもその運動課題
としており、また多くの労働者が従事職業を自己の消費生活の手段として位置づ
けているばかりでなく、自己の労働を通じて社会=他人に貢献することに喜びを
感じているからである。多くの教員が「処遇」の劣等性にもかかわらず大学教員
を続けているのは、いまさら別の職業に就くべくもないということもあるが、教
育や研究における手応え・成果を労働のさまざまな場面で感じるという喜びの慰
謝に拠るところが大きい。そこで、任期制が教育・研究の向上に資するかどうか
を吟味してみよう。
 (1) まず第一に、就職準備期間が長く、おまけに低賃金で雇用不安定な職業に
有能な人材が入って来るかという問題がある。任期不更新=失業の脅威に耐え、
教育・研究に犠牲的献身が行える「強い意志の人」か「家産の豊かな人」だけで、
この職業を構成することになってよいのか。そのような特別な人々で大学教員が
構成されることになった場合の教育・研究は結局貧しい成果しか生まないだろう。
 (2) 大学審は、任期制が教育・研究を活性化させるとして、@人事の交流促進、
A採用・再任審査の際の業績評価を通ずる活性化、B大学組織再編の容易化の三
点を挙げている。加えて、若手教員の資質向上のトゥールにもなるとしている。
しかし、この四点ともに教育・研究の衰退・破壊に通ずる可能性が大きいものと、
われわれは考える。まず人事交流であるが、教員としての資質に劣るとして再任
されなかった人々はどのように交流するのであろうか。非常勤講師など、一層
「処遇」の低いポストでもと必死の求職活動を重ね流浪することになるのか。そ
の過程で、研究・教育能力自体が崩壊するということも起こりえよう。そうして
空けられたポストに「資質に優る」と評価された人々がやってくるわけだろうが、
このような機構は文部省の行財政措置によって系統的に維持されてきた大学の差
別化を一層促進することになろう。それで、日本全体の研究水準の向上や、高等
教育の充実になるのだろうか。われわれは「ならない!」と叫ぶ。
 (3) 業績評価で煽って活性化を図るという主張については、まず現在でも教授
昇進または採用のための業績審査などが行われていることを「指摘」したい。大
学審文書は「いったん教員に採用された後は、業績評価が行われず、年功序列的
な人事が行われ、教育研究が停滞することが指摘されている」と書く。この「指
摘」はデタラメだ。このような重要なことについては、他人の「指摘」ではなく
大学審みずからの認識を提示すべきである。われわれの認識はこうだ。もし「停
滞」の指摘に真実性があるとするなら、次の二点であろう。第一は「評価」が形
式的で馴れ合いになっている可能性の存在である。しかし、この論理は任期制に
しても、存在しうる。そしてこのような恣意的温情的「評価」は、容易に金力・
権力に迎合して、特定人格の差別的排除に転化する可能性が大きい。第二は「教
授」昇進以降の問題である。そこでは、近年の「自己評価」を別とすれば、また
学会など社会化されたレベルでの評価を別とすれば、たしかに雇用されている機
関での「業績評価」は無い。ここにこだわれば、むしろ「教授」職にこそ任期制
が必要ということになろう。しかし、大学審文書は「教授」よりも「助手」に任
期制運用の力点をおいている。結局、最も蓋然性の高い「改革」のイメージは次
のようなこととなろう。現在、自立性を高め「教授を助ける」に徹底できなく
なっている「万年助手」「万年助教授」が任期制により一掃され、それに代えて
「教授」に従順な若手を次々と交代して研究・教育体制を維持するという姿であ
る。これでは、財界の要望でもある創造的研究者の輩出どころか、大教授先生の
クローン人間集団に教員集団が変質してしまうということだ。
 (4) 大学審文書は、任期制のメリットの第三として、学問の「新しい展開」に
応じて組織再編をするのに「効果的である」と言う。つまりポストを増やさずに
リストラ出来ると言っているのだ。学問の自立性、あるいはアカデミック・フ
リーダムが無視され、伝統的古典的な学問研究の分野の教員がいかに業績を挙げ
ようとも組織再編と任期制の結合で簡単に放逐されることをわれわれは危惧する。
 (5)「多様な経験を通じた若手教育・研究者の育成」も任期制のメリットに挙
げられている。たしかに「多様な経験」は教員の発達にとって有用であろう。だ
が、多くの教員は5年の院生生活、その後何年かのオーバー・ドクターあるいは
ポスト・ドクターの生活、そして漸くの定職への到達という過程で現に「多様な
経験」をするのが普通である。任期制という過酷な制度で「多様な経験」をさせ
る必要は全くない。その後の「多様な経験」は、潤沢な研究費を基盤に行われ得
る国内外での多様な研究交流、学会活動、留学経験などでこそ行われるべきであ
る。
 われわれは、以上の趣旨から任期制導入に強く反対し、その推進者たちに厳し
く抗議するものである。同時に、定員・予算増さらには「基幹化・重点化」の代
償として軽率に任期制導入を受容するといった致命的不等価交換を行うことのな
いように、九大教員各員に心から呼びかけたい。 (以上)